【イベント】ALL ABOUT マイコンBASICマガジンⅡ #AABM2

マイコンBASICマガジン(ベーマガ)は、電波新聞社から1982年から2003年まで発行されていた、ホビープログラマ向けの月刊誌である。
私が初めてパソコンを買ったのは1982年の12月。「ぴゅう太」という、いかにも玩具のような機種名で、実際玩具メーカーが発売していた。家庭用のTVに繋げて使用する、半ばゲーム機を兼ねたパソコン。当時電機メーカー各社からはモニタ込みで数十万円もするような高価なパソコンも発売されていたが、母子家庭の我が家には手が届く代物ではなかった。

当時はインターネットなどというものは一般人には全く無縁のものであり、それ以前にパソコンを持っている人が学校全体でも数人程度というレベル。
なおかつ、当時の一般的なパソコンはユーザーフレンドリーという概念からはほど遠く、パソコンで何かをしたければ自分でプログラムを書くことが事実上必須であった。まず電源を入れると内蔵のBASICが起動し、「OK」もしくは「READY」と表示され、カーソルが点滅する。「ご主人様。ご命令をどうぞ」といった感じで命令を待っている状態であり、これからパソコンが何をすべきか、ユーザー自身がパソコンに分かる言葉で命令する必要があった。

ネットが当たり前の今の時代しか知らない人にとっては、パソコンがネットワークに繋がっていなかった時代の不便さを想像するのは難しいのではなかろうか。ソフトや画像をダウンロードすることも出来ない、他人と繋がれないから何の情報も得られない。分からないことがあっても、周りに使っている人もいないので質問すら出来ない。当時まだ実用に耐えなかったパソコンに未来と可能性を感じ、安くはない投資をして買ったにもかかわらず、ほんの少し触っただけで使いこなせず部屋の片隅で埃をかぶっていた…というケースも少なくなかった。

そんな時代において、当時中学生だった私にとって「ベーマガ」は貴重な情報源であり、まさにバイブルと呼ぶべき存在であった。私も含む当時の多くの子供たちが興味を持っていたであろうゲームプログラムに特化しており、掲載されているプログラムも短めであったため、子供でも頑張れば入力し実行することが出来た。ゲームソフトを買うお金がなかった少年たちにとっては、ゲームを遊びたいがために雑誌のプログラムを入力し、結果プログラミングの学習にもつながっていた。当時のベーマガで学んだ読者が、現代においてもIT業界で活躍しているというケースも少なくはないだろう。かくいう私自身も、およそ四半世紀以上に渡り、某ゲーム会社でプログラマーとして働くことが出来ている。

前置きが長くなってしまったが、当時のパソコン少年たちにとってのバイブルであったベーマガに深く関わっていた人たちが登壇するイベントが、1/14によみうりホールで開催された。詳しいレポートは他の誰かが書いてくれるだろうと期待し、個人的に印象深かったことだけを記す。

ベーマガ誌上では、編集部員をモチーフにしたと思われるキャラクターが毎回登場していた。彼らが実在するかどうか自体今まで謎だったのだけれど、今回初めて当の本人達を確認できたのが感慨深かった。
特に紅一点である「つぐ美さん」の存在は、多くの読者にとって気になるところであっただろう。彼女は「ぴゅう太」や「シンクレアZX81」等といった、比較的マイナーな機種の担当だったという説明があり、壇上のスクリーンに当時の紙面が映し出された。
そこに映されたぴゅう太の投稿作品が、なんと私が初めてベーマガに投稿したプログラムであった。

 

私の手元には掲載誌は残っていないので、フォロワーさんのツイートを引用。
多分誰も気にしていないと思うけれど、スクリーン上には私の本名がばっちり映っていた(笑)。

自分が作ったゲームが雑誌に掲載され、なおかつ原稿料(源泉10%引いて9000円)がもらえるというのは、子供だった自分にとってはこの上ない喜びであった。
当時、雑誌が発売されるよりも少し前に、ベーマガ編集部から女性から掲載を知らせる電話があった。あの電話の主はもしかしたらつぐ美さんだったのかなぁ…?と今までずっと疑問に思っていたのだけれど、30年以上経った今になって、やっぱりあの人はつぐ美さんだったんだ!と確信することが出来た。それが分かっただけでも、今回のベーマガイベントに参加した価値は十分あったと思える。
当時の電話では「ぴゅう太の投稿が減ってきているので、また何か作ったら投稿して欲しい」というような趣旨の話をされたのを覚えている。当時の私の力ではなかなか及ばず、結局それは叶わなかったのだけれど。
翌年は友人から借りたMSXでゲームを作って投稿し、それも掲載されたのだけれど、その時は事前の連絡はなかったので驚いた。機種が違うと担当者も違うので対応が違ったのだろう。

私が「ぴゅう太」を買った中学生当時、付属のマニュアルを独学で勉強して、約一月である程度のプログラムが組めるようになったのだけれど、作ったゲームを実際に投稿することは難しかった。具体的には、作ったプログラムの保存が出来ない。当時のパソコンではセーブデータをカセットテープに保存するのが一般的だったのだが、元々ラジカセというものは音楽を保存するためのものでパソコン用ではないという事もあり、当時家にあったラジカセでは何度試しても正常にデータを保存することが出来なかった。メーカー推奨のデータレコーダは約1万円もしたので、なかなか買えなかった。やっとデータレコーダを買い、初めて制作物の保存や投稿が出来るようになった。ちなみに、ぴゅう太はデータのセーブ・ロードが非常に遅く、10数キロバイトのデータのセーブに12分もかかるのが辛かった。

ぴゅう太は当時としては特殊なパソコンで、まずグラフィックエディタで絵を作成し、その後プログラムを入力することによりゲームが完成する。なので当時のベーマガぴゅう太の投稿では、紙面にはプログラムと一緒にセルやスプライトグラフィックパターンも同時に掲載されていた。このユニークなアーキテクチャは、その後の自分のプログラミングにも大きな影響を与えていると思う。次にMSX2を購入した時も、まずグラフィックエディタを自作するから始めた。そのためかどうかは分からないが、今でもゲーム開発に限らずインハウスツールの作成も割と好きだし得意な分野の一つである。
また、今の会社に就職して初めての仕事は、ポリゴン描画機能を持たないゲーム機のカートリッジにDSPチップを搭載し、ポリゴン描画エンジンを実装してアーケードのレースゲームを移植するというものであったが、これもぴゅう太のグラフィックエディタでセルを直接編集していた経験が活きていた…のかも知れない。

以上、まとまりのない文章になってしまったが、かつてベーマガに育ててもらった感謝の気持ちとして記しておきたい。